マティスを知ったのは、無印良品とIDEEのコラボで、マティスの作品がインテリアとして紹介されていたこと。これを機にしっかり知りたいと思って訪れた。
以下、今回の企画展の非常にざっくりした感想。
マティスの人生ざっくりまとめ
20代から80代まで芸術家として活動。若い頃は写実的な作品も描いていたが、フォービスムを追求し、追って切り絵での表現をするなど、色彩面で抽象的な作風が特徴。晩年は壁画クラスの大作や、教会をまるごとコーディネートするなどした。
マティスとピカソ、フォービスムとキュビズム
キュビズムは形を抽象的に表現したもので、ピカソがその代名詞。フォービスムは色彩を自由に表現したもので、マティスが代名詞。ただし、形だけ・色彩だけの抽象化はありえないので、両者は表裏一体。
実際、ピカソとマティスは1900年初頭のパリで共に活動していたこともある。ピカソは女遊びが激しかった的なエピソードも聞くが、マティスは淡々と芸術活動していたイメージ。
以下参考文献
マティスとピカソ 2人の特徴と関係性 |Casie mook
マティスは芸術に没頭できた作家だった
今回の展示を見る限り、マティスは生涯を通じて芸術に没頭できた、非常に恵まれた芸術家だったと言える。彼の人生や作風には、二度の大戦の影響や、自身の人生に対する葛藤のようなものがほぼ感じられない。論評も、色彩の表現など表現技法によるものが大半である。
例として、彼の活動拠点だったフランスは第二次大戦でドイツに侵略されたが、この時も「戦火を逃れてニース近くのヴァンスという小さな村に拠点を移して活動を続けた」。解説文だけ聞くと簡単だけど、制作拠点を移すフットワークの軽さとか、結果として活動を続けられていた先見の明とか、極めてやり手な印象を受ける。
やり手といえば、マティスの中〜後期の作品は大型のものが多いが、これは多くが顧客からの依頼を受けて制作したものだという。
マティスのパトロンたち
代表的なパトロン2人について、ChatGPTからの転載です。
Albert Barnes
アルベール・バーンズは、アメリカの実業家であり、バーンズ・ファウンデーションを設立しました。彼は美術史家でもあり、アートコレクターとしても知られています。バーンズは、欧州での美術教育を受け、特にフランスのアートシーンに興味を持っていました。
バーンズがマティスの作品に出会った具体的な経緯は明確ではありませんが、おそらく彼がパリや他の地域で開催された展示会やオークションなどでマティスの作品に触れ、その作品に魅了された可能性が考えられます。特に、マティスがフォーヴィスム運動の一員として知られるようになった初期の時期に、バーンズが彼の作品に興味を示したと推測されます。
Albert C. Barnes - The Metropolitan Museum of Art
Sergei Shchukin
セルゲイ・シュチュキンはロシアの実業家であり、マティスとの出会いはパリのアートシーンでの交流から始まったと考えられます。当時、マティスはパリでフォーヴィスム運動の中心的な芸術家の一人として活動しており、シュチュキンはその作品に興味を持ち、彼との親交を築いたとされています。
Sergei Shchukin - The Metropolitan Museum of Art
アート市場の成熟と芸術家の成功
マティスが活躍していた20世紀初頭は、既にアートコレクター、オークションなど、パトロンと芸術家をつなげる市場が存在していた。芸術家というと、ゴッホやフェルメールのように、生前は清貧や葛藤の中で作品を残し、死後に評価される印象があるが、それは19世紀以前の話なのかもしれない。以下、アート市場の概要についてのChatGPTのまとめ。
ルネサンス期のパトロン制度の興隆:
ルネサンス期には、芸術家はしばしば王侯貴族や富裕な市民などのパトロンから支援を受けていました。パトロンは芸術家に対して経済的な支援を提供し、その代わりに作品の制作を依頼したり、芸術家を宮廷や家族の宮廷画家として雇用したりしました。
バロック期の市場の形成
バロック期には、芸術市場が急速に成長しました。芸術品は富裕な貴族やブルジョア階級の間で人気が高まり、芸術家たちは直接、あるいは美術商やギャラリーを通じて作品を販売することができました。
19世紀の画商とギャラリーの役割
19世紀には、画商やギャラリーが芸術市場において重要な役割を果たしました。彼らは芸術家の作品を取り扱い、展示し、販売することで、市場の形成に貢献しました。特に、印象派や後にポスト印象派の運動において、画商やギャラリーは新しい芸術の流れを先導しました。
20世紀のオークション市場と美術館の役割
20世紀に入ると、オークション市場が芸術の取引の重要な手段となりました。さらに、美術館のコレクションが拡大し、芸術家の作品が収蔵されることで、その価値や影響力が高まりました。また、美術市場における美術評論家やキュレーターの役割も大きくなりました。
ではマティスのビジネス面の成功要因は?
マティスにはリディア・デレクトルスカヤという美しいロシア女性の助手がいた。彼女は長年にわたりマティスの作品制作における支援をしていた。
一方で、彼が上記のパトロンとどのように付き合っていたのか、ビジネス面のマネージャーのような人がいたのか、などは知られていない。
岡本太郎の歩みとも通ずるところがある
- 若い頃に写実的な表現を捨て、独自の抽象表現を模索している点
- 晩年に建築を含む自身の集大成的作品を産み出している点
- 抽象表現の行く先に宗教性すら関係してくること
マティスは79歳から取り組み始めたロザリオ礼拝堂のプロジェクトにて、自身にとっての集大成とも言える、建築、衣装、絵画など全てのデザインを手掛ける。岡本太郎は60歳ころに迎えた大阪万博における太陽の塔という超巨大プロジェクトを手掛ける。
両者ともに年齢を追うにつれてその抽象表現に磨きがかかる。それぞれ土俗的なもの(マティスはアフリカ美術、岡本太郎は民俗学)に興味が向くのも似ている。
まとめ
新国立美術館のマティス展は、図録を見るように、その生涯にわたるマティスの作風を俯瞰できた気になる展覧会だった。特にヴァンス市のロザリオ礼拝堂のレプリカは、3分間で1日の光のうつろいを表現したとのことで味わい深い。