ビビって失禁する人を人生で初めて目の当たりにした。相手は愛しい5歳の我が息子である。映画スーパーマリオブラザーズを観ながらの出来事だ。
悪役であるクッパが出てきたときだけでなく、先の読めない展開が出てくるたびに耳をふさいで怖がっていた。これはマリオだけでなく、以前LEGOの映画を観た時も似たような感じだった。
そんな息子の好きな番組はパウ・パトロールとウルトラマン。これらは親としては一緒に観るにはやや物足りなく、子供向けだから一緒に観られるだろう、という軽い気持ちで映画を観たら冒頭のような状況になった。
マリオもLEGOも、物語としては以下のようなプロットだ。
こう書いてみると、最近流行りの「なろう系」と同じではないか。このプロットが面白いと感じるのは、日常で冴えない自分自身に主人公を重ね合わせ、主人公が内に秘めたるスーパーパワーで周囲を圧倒することに対する共感や羨望、つまりカタルシスを感じるからだ。そしてこの物語は、3. における主人公の葛藤や、4. におけるピンチが深まれば深まるほど面白い。
さて、物語からカタルシスを感じるのは、日常で感じた鬱憤や憤りを昇華させるためだ。つまりカタルシスを感じる物語を面白いと思うのは、日常に鬱憤や憤りがあることが前提だ。
そしてそのような状況に陥るのは、大抵の場合思春期からだろう(一部の恵まれない子どもたちを除く)。我が子の日常を顧みると、毎日楽しく保育園に行き、週末も楽しく遊び、そもそも葛藤がほぼ存在しないのだ。
そんな子供にとってマリオのクッパやLEGOのお仕事社長は、理解の及ばない嫌なやつであり、なぜそれをわざわざ楽しいお家の時間に観せられなければならないのか理解できない。笑えるギャグシーンだけ観せてもらえたら良いと思っているのではないか。
思い返してみると、機関車トーマスを観なくなったのも「ディーゼル・テン」といういじわるな電気機関車が頻繁に出てくるようになってからな気がするし、ドラえもんやアンパンマンにあまりハマらなかったのもジャイアンやバイキンマンという如実に悪いやつを見るのが嫌だったからかも知れない。
さて、息子の好きなパウ・パトロールには「ライバール市長」というバイキンマン的キャラクターが登場する。パウ・パトロールの良さは物語が誰も悪くないトラブルを解決することを主軸に回ることなので、この先ライバール市長の登場頻度が高まらないことを祈るばかりである。