おとうのオートノミー

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藤井風「花」と分人主義 〜色々な僕らを試して内なる花を咲かしてみる〜

藤井風「花」にハマっている。飲み会のあとの酔っ払った帰り道にイヤホンで大音量で聴くのが最高に好きだが、仕事・リラックス、どんなシーンのBGMにも合う。

そんな「花」の歌詞は難解だと言われる。これを分人主義から解釈すると比較的わかりやすいのではないかと思い今回の記事を書いてみる。

そもそも分人主義とは、小説家の平野啓一郎が唱える考え方で、個人(Individual = これ以上分ける(Divide)ことができない存在)に対して、分けることができる存在 = 分人(Dividual)として定義した言葉だ。

人間は社会の中で様々な側面を持つ。職場での自分のキャラクターと、友人と接する際のキャラクター、両親や子どもと接するときなど、全て少しずつ異なる「自分」である。これらに共通するIndividualな自分自身はおらず、むしろ様々な側面(分人)全てが自分である、という考え方だ。


www.youtube.com

dividualism.k-hirano.com

この分人主義を踏まえた上で、藤井風「花」の歌詞を振り返ってみる。


www.youtube.com

すると歌詞の端々に、自分自身の中の様々な分人を客観的にかつポジティブに捉えていると思われる部分が見つかる。

「何ができるのだろうか 誰を生きようかな
 みんな儚い みんな尊い

「私は何になろうかな どんな色がいいかな」

またこの解釈に立つと、「しわしわに萎れた花束」は過去に試した分人、「内なる花」は今後花開く、より自分自身が好きな分人、と捉えることができる。

総じてこの歌詞は、かつては「永遠に変わらぬ輝き探してた」つまり変わることのない自分自身 = Individualに囚われていたこともあるが、今は様々な分人を試すことを通じて、より本当の自分自身を表す分人を探す過程を楽しみながら試行錯誤している様子を表していると言える。のではないか。