おとうのオートノミー

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「すばらしい新世界」から考える幸せの要素

オルダス・ハクスリーすばらしい新世界」を再読したのでその感想です。

前回読んだのは多分20代後半の頃。30代半ばになった今、社会の階層のようなものも実際に感触としてわかってきたので、当時より本の内容と現実世界を客観的に比較することができるようになりました。

ディストピアなのにみんな幸せ?「すばらしい新世界」の世界観

はじめに:ディストピアとは

一般的にディストピアとは、救いのない暗い世界観のような響きがあります。しかし実際には、その「暗さ」「救いの無さ」は真実に目覚めた主人公にとってのものでしかなく、その世界で暮らすマジョリティの人々はむしろ幸せを疑わずに生きているケースが多いです。よくできた井戸の中に住んでいる蛙は、井の中の蛙であるがゆえに幸せかもしれない、ということ。

本書「すばらしい新世界」でも、国民が幸せになるシステムがとても周到に組まれています。

自分の人生が幸せであることを信じて疑わない「条件づけ」

この本の世界では、市民はカースト制のようにアルファからイプシロンまでの5段階の社会階層に分かれていて、みんな生まれる前から自分が属する階層や仕事が決められています。人間は工場で生産され、その生産工程で将来の仕事に最適化されるよう、快・不快の感覚を「条件づけ」という作業で調整されて産まれてきます。工場勤務であれば騒音を快く感じる、というように。

このように教育課程で行われる一連の「条件づけ」の中には、自身が属する階層が一番幸せなのだ、というものも含まれます。デルタからすると、アルファ階層は複雑で高度な頭脳労働をしなければならないので不幸である。イプシロンならもっとひどい生活をしなきゃいけない。私は単純労働と遊びにふけることができるデルタで幸せ!というあんばいです。

そもそも社会の階層化の是非については、「過去にある島でフラットな社会を作ってみたものの、同一階層内での諍いが絶えず、結局階層化することが社会の安定に必要であることがわかった」ことが本の後半で明かされます。

この仕組みによって、全員が天職につくことができ、自身の人生を疑う余地なく過ごすことができます。

病気と老衰が存在しない

すばらしい新世界は、徹底した予防接種、殺菌、害虫の駆除などにより、病気とは無縁の世界です。また人間はある年齢に達すると、各種の健康施策によりそれ以上老化が進まないようになっており、そのまま60歳でぽっくり逝くシステムになっています。

死は幼い頃からの条件付けにより、怖いものではありません。死んでなお、死体を焼却して生成されるリンが工業の役に立てることを、むしろ幸せに捉えられています。人は老衰と病気から開放されたおかげで自身の能力の劣化を思い悩むことなく、死ぬまでどんちゃん騒ぎを続けることができます。

恋の悩みが存在しない

「私はみんなのもの」なので、フリーセックスが推奨され、誰か一人を独占するような恋愛はご法度です。モテる・モテないで悩む人間は、本書の主人公を除いて存在しません。みんな幼い頃からセックスによるストレス軽減の方法と、避妊法を身につけています。そもそも不妊個体が大半なので、予定外の妊娠は基本的に起こりません。

それでも困ったら麻薬に頼る

これまでの舞台設定で、自身の人生の先行き、病気や老衰、そして恋愛に関する悩みが取り除かれます。それでも何か思い悩むことがあれば、麻薬に頼ることが推奨されます。

この世界では「ソーマ」と呼ばれる麻薬が工業生産されています。ソーマは服用後にダウナーにならず、気分転換をしておしまいになるので、デメリットがありません。二日酔いにならないお酒のようなものです。

現代社会とのギャップと類似点

社会の考える「しあわせ」のために社会システムが合理的に組まれている

定義される「しあわせ」自体の良し悪しは別にして、社会としてある「しあわせ像」を定義し、市民がそれを享受するためのシステムを用意してくれている点は、現実社会より小説世界のほうが良い点のように思います。

現実社会(少なくとも現代の日本社会)では、社会システムは各方面への便宜の結果成り立っており、近視眼的な局所最適の集合体でしかありません。また社会や個人が目指す幸せの定義やその見つけ方、考え方などは、誰もちゃんと教えてくれません。

徹底的に論理化され、体系化された幸せ像がどこかに一つあるのは、自身の幸せを考える上でも良い基準になるのでは、と私は思います。

またこのような問題に答えのようなものを提供してくれるのは宗教ですが、神のような絶対的な存在に頼らずとも、現在の各種社会システムがどのような人生をマジョリティとして想定したものなのか、わかりやすく教えてくれる教科書のようなものがあっても良いでしょう(現代社会版の経典みたいなもんか)。

社会が階層化されている点

私は本書に出てくるムスタファ・モンドのように、何らかの社会階層は発生するほうが自然である、と考えます。生物は多様であるからこそ生き延びていることと、多様であるがゆえになにかにおいて優劣が生じることは自明です。この点は、本小説は格差の思考実験としてとても良く表現できています。

現実世界において「すばらしい新世界」の世界ほど如実な序列が現れる場面は、飛行機のファースト・ビジネス・エコノミークラスの座席分けくらいしかありませんが、それ以外でも現実の社会は大なり小なり階層化されています。一番の違いは、現実世界では格差が生じる大きな理由が家庭(生まれ)にあるのに対し、小説世界では完全に社会(政府)が計画的に格差をコントロールしている点でしょうか。

家庭と社会のバランス

この、人の一生を左右する要素を家庭に置くべきか社会に置くべきか、というのは個人的に非常に興味深い論点です。

最近だと自身の産まれを表す「親ガチャ」という便利な言葉も生まれました。この国は敗戦によって街並みも階級もいったんフラットになりましたが、その後3〜4世代経た現在、再び階層感の格差が越えられない壁となって現れているように私は感じています。

全てを家庭に任せていたら、数人しかいない家庭の構成員の能力の限界が、その構成員全体(特に子供)の限界になってしまいます。一方これまでの歴史で、大きな政府が社会の全体的な目標と、その社会の構成員の幸福を両立して実現できた試しはありません。社会の目的と、社会の支配層の目的は容易に合致するのが歴史からの教訓です。

自分が属する社会や国家の存在目的を、改めて考えてみる良い機会なのでしょう。

すばらしい新世界の幸福論

すばらしい新世界」の社会で生きることとは、クリーンな社会の中で生きること。自分の仕事が社会の発展に直結し、オフの時間は人間の本能を忠実に満たす娯楽に囲まれ、思い悩むことがないまま生涯を終えていくことです。この社会が目指す「しあわせ」とは、過去も未来も無く、産まれてから死ぬまで常に「いま・ここ」を生きること、とも言えます。このようなしあわせは華氏4511984などでも描かれます。

逆に考えると「しあわせでない」とは、やりたい仕事と現状、老いた自分と若い頃の自分、モテたいのにモテないことなど、「自分の能力の限界と理想とする姿とのギャップに気づき、その狭間で葛藤すること」と言えるかもしれません。そしてこの本における社会では、このようなギャップが極力存在しなくなるよう、社会側が個人に寄り添ってくれています。

本書を含む多くのディストピア小説では、マジョリティのみんながこのようなしあわせを享受する一方、何らかのコンプレックスを抱える主人公がそこに疑問を抱いていきます。

登場人物別 幸せのパターン

本書から読み解ける、幸せに至るパターンは3つほどあるかと。

一つ目、社会が用意したしあわせに乗っかること。自身が社会的マジョリティである場合には良い選択肢です。後述する苦労や悲劇などは、実際に体験すること無く画面の向こうの出来事として楽しむと良いスパイスになります。このしあわせ観のデメリットは、自身のしあわせを社会に依存することでしょうか。でも社会はよくできているので、次から次へと別のしあわせを提供することに長けています。

二つ目、社会や文明に頼らず原始に帰ること。小説の中で言えば、原住民に育てられたジョンがたどるルートがこちら。山に登ったり走ったり修行したり、文明化された社会の中でただ生きているだけであれば味わなくて良い苦労をわざわざすること。原始的な達成感が得られます。

三つ目、あえて人間らしさにこだわること。本書の中でヘルムホルツがたどったルートです。古今東西人の心に残るエピソードとは人間の悪徳や悲劇に絡むものが大半です。人間らしさとは、悪徳、悲劇、苦労など、なんらかマイナスの感情を伴うものです。ハッピーエンドな物語でも挫折があるからこそカタルシスを喚起します。

ただしこの三つ目に関しては、「人間らしさ」が人間の欠陥に依存するため、この三つの中で最も狙って得ることがむずかしいものです。万が一いま人間関係の悩みの最中にいる場合、「人間らしさ」を感じられてラッキー!…とはならないか。