おとうのオートノミー

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オルタナティブスクールと普通の学校の違い

「きのくに子どもの村学園」をきっかけに、いわゆるオルタナティブスクールと呼ばれる「気の利いた学校」と「普通の学校」は何が違うのか、そして普通の学校がより良くなるためにはどうしたら良いか、考える機会があったのでまとめます。

結論としては、オルタナティブスクールか普通の小学校かは、決してゼロイチではなくて、普通の小学校に子供を通わせていても、オルタナの要素を補ってあげられる可能性はあるのでは、ということです。そのためには「オルタナティブスクールの要素」の徹底的な言語化が必要です。

きっかけ

最初のきっかけは2022年に「夢見る小学校」という映画を観たこと。ここで初めてオルタナティブスクールという概念に触れ、「きのくに子どもの村学園」「桜丘中学校」「大日向小学校」などの優れた学校名も知ることになります。

www.dreaming-school.com

 
 
 
 
 
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次いでつい先日、古くからの知人が主催するイベントできのくに学園の南アルプス子どもの村(以下単に「きのくに」と言います)を取り上げたのに参加しました。ここでは実際に同小学校を訪問したメンバーからの臨場感あるレポートを聞きました。

hagukumukohan.com

そこで生まれてきた問いと自分なりの回答が以下。

きのくには普通の小学校に比べて何が優れているのか?

大きく2点あると思います。

1. 好奇心を育てること

よくオルタナティブスクールに対して普通の小学校の詰め込み教育が批判的に語られます。しかし詰め込みの批判は両者の比較の観点としてやや近視眼的すぎます。

好奇心の源泉は知識でもあり、一定の知識の上に成り立たない好奇心は幼稚です。きのくには別に知識を得ることを否定するわけでは全く無く、むしろ知りたいときに読めるよう、本に対するアクセスは良さそうな印象を受けました。

両者で根本的に異なるのは、きのくにには「なぜその知識が必要なのか」を教えたり考えさせたりすることに対するこだわりがあることです。「プロジェクト」という「壮大な遊び」の中で、例えば大きな造作をする際に寸法を測る必要がある、だから算数を学ぼう、という、通常の教育とは逆の順序です。私は、これは人類が知識を得てきた流れを追従する教え方なので、生きるための学び方を得るためにも、知識を定着させるためにも効果的だと思います。

子供が自分で学ぶ意義を考えると、出てくる答えは十人十色。この教え方を許容するためには、次に出てくる心理的安全性が担保されていることが前提となります。

2. 心理的安全性を担保できていること

きのくにのレポートで印象に残った言葉は「感情が自由であるならば、知性はひとりでに動き出すだろう」←確か校長の加藤さんの言葉です。最近流行りの陳腐便利な言葉でいうと、学校中で「心理的安全性」が担保されていることが学びの源泉である、という考え方です。

ではどのように心理的安全性を担保するのか。

人は「ありのままで良い」と他者から(修行を積むと自分自身から)認められたときに安心します。このためのテクニックとして「表現」と「表出」というキーワードが出ました。表現とは自身が意識的に外に向けて表すこと。表出とは無意識的に出てしまっているもの。第三者に「見てるよ!」って教えるためのテクニックとして、この「表出」を言語化して伝えてあげる、ってのがあります。きのくにではこのように、他から認めてあげることを意識的にやっている印象を受けました。

きのくにには相性の合う子供の間口を広げるヴィジョンとシステムがある

普通の小学校でもいきいきと自身の能力を伸ばしていける子供はいます。ただその割合はおそらくそんなに高くない。

きのくにはその間口を広げることに特化したシステムが組まれている印象を受けました。前述したような子供ごとの個性と興味を伸ばすための教え方や子供への接し方が、カリキュラムの組み方や「おとな」「こども」という呼び方など各所に埋め込まれているのかと。

で、それと同じくらい大事なのが「子ども観」という考え方。私がかつて通っていた公立の小学校にも「自立した子、はっきり挨拶できる子」みたいな、いかにも標語って感じの何かはありました。

一方で、例えばきのくにには「自由な子ども」、伊那小学校には「子どもは自ら求め,自ら決め出し,自ら動き出す力をもっている存在である」など、ちゃんと大人の側が自分の頭で考えた子ども観が定義されています。よく定義された子ども観は、ベンチャー企業でありがちな「ミッション・ヴィジョン・バリュー」の「ヴィジョン」に相当し、先生方の方向性を揃える大義名分になります。

結果的に競争がない

自分の好きなことを掘り下げる環境にいる子どもたちには、同じ軸で競い合う「競争」とは無縁です。きのくに訪問者レポートの中で、「自分の苦手なこと」を聞かれた在校生が、悩んだ挙げ句答えを見つけられなかった、というエピソードが象徴的でした。競争をさせない環境を作ろうとしてこうなった、のではなく、間口の広い土壌を整えた結果、競争がなくなった、という順序だと思います。

一方で、競争やプレッシャーの中で育てられる要素もあるかと思います。これはやや余談ですが、軍隊の規律の中で育てられる要素と、きのくにのような環境で育てられる要素は全く異質なものです。自由過ぎる環境の中で育った子どもは、社会に出たときにそのギャップにやられてしまうのではないか、とも思いました。

ポイントは、少子化かつ多様化する社会の中で、競争を必然のものとしない社会の環境もまた育ちつつあるのではないか、ということです。むしろこういう学校を卒業した人には、そういう社会の旗手になってほしい、とすら思います。

(以下は軍隊の規律が人を育てることもあるよね、という本の読書ログ)

auto-dad.net

まとめ:普通の小学校でオルタナティブスクール要素を取り入れるには

我が家はこれから自分の子供が小学校に上がっていくわけですが、夫婦で話をした結果、地元の公立小学校でも以下の「★」を満たせるので、まずはこのまま行ってみよう、となっています。

学校にできること(親が学校を選ぶ際の指標にできること)
  • ★小規模校であること。多様性と心理的安全性を重視するためには、大人数の子供を少数の先生で率いていく学校だと構造的に限界があります。
  • 校則が少ないこと。特に校則が、大人による子どもの統率を目的としたものだと悪になりえます。
  • 先生に好奇心があること。先生が多忙すぎないこと、楽しそうな顔をしていること。
  • その時にいる先生方の腹落ちする言葉で語る「子ども観」の定義
親にできること
  • ★学ぶ目的を伝えてあげること。これを普通の小学校に期待するのはなかなか先生にとっても酷なのではないかと思います。
  • 心理的安全性を担保すること。自分の子供に対して言語化した褒めをしてあげること。

ただ一方で、一度は実際にこの目で小学校を見学し、我が子が自分で行きたいと判断できるなら、全力で準備する所存です。

見学&入学するには - 南アルプス子どもの村